かれこれパフォーマーになって10数年経ちました。
思えば最初は話すのが苦手で音楽をガンガンかけて一言も話さすにパフォーマンスしてました。
出始めは色々と苦い経験ばかりでしたよ。だって恥ずかしがり屋の素人が人前でパフォーマンスしているんだもの(笑)
1、チョイス
ピエロになりたっかたのかも
じつは二十歳の頃、車の中はピエロだらけでした。前にも書いたと思いますがパントマイムの「中村ゆうじ」さんのマイムを見た時の衝撃が忘れられない、そしておそらくどこかで見たパントマイムのピエロが記憶の片隅でず~と模索してました。・・・かと言って何ができるわけでもなく年月は過ぎていく。
2、チャンス
38歳の頃新聞を見ていたらいわき市三和公民館でパントマイム教室って載ってて、ちょっと参加してみようかなと思い申し込みました。
当時劇団「かもめ」の代表で森絵留さんが講師として来てくださって、かれこれ週一で二カ月位教えて頂きました。(真ん中にいるのが私です)
当時は練習風景が新聞に載り、後日夕方のニュースのオープニングにも使われました。
パントマイム(アメリカ型・フランス型)
一般的に大道芸で皆さんが演じているコミカル的・形態模写的なパントマイムはアメリカ型で、呼吸・表情・感情・思想などを表現してるのがフランス型だったりします。
私の場合フランス型(マルセーマルソー)を教えていただきました。音楽と共に自分が「花」になったり、感情の喜怒哀楽を身体で表現したりと、非現実的なことを習いました(笑)
自分的にはアメリカ型を期待して行ったのでちょっとガッカリ感があったのですが、後で思うとパントマイムの神髄を教えて頂いたので貴重な経験をさせていただきました。
なんとなくパントマイムの雰囲気がわかって、ワークショップ最後の時に、一人3~5分位で自分の表現をしてくださいと課題!とりあえず高中正義の曲で5分、パントマイムで人生を表現してみました(笑)すごい緊張しました。
それから数カ月が経って平の七夕祭りで偶然再会、森絵留先生が催しものをやっていらっしゃって、「ここで一緒に何かパフォーマンスやろうょ」と言われましたが、さすがに大勢の前では何の準備もなく(特に心の準備)遠慮させていただきました(笑)その頃から何となく何かをしたいと思ってはいたもの、結局気持ちだけが先走って何にも出来ずじまい。
3、チャレンジ
いわき芸能倶楽部との出会い
さらに数年が経った頃、月刊誌りーどに「いわき芸能倶楽部」のマジックけーぞさんの掲載を見つけた時「これだ!」と思い即座にいわき芸能倶楽部に電話しましたね。
マジックけーぞさんにアポをとり、それからファミレスお話ししていただいて、会場を借りて「パントマイム」教えてもらったら最後に「いわき芸能倶楽部入ったら」と言われ・・・でもパントマイム見習いに何ができるのかなと思いつつもお願いしますって、言っちゃいましたね(笑)
それからいわき芸能倶楽部の「けん玉8さん」「常磐亭ハワイさん」「火の車太郎さん」「マジックけーぞさん」の四人がある商工会の忘年会でパフォーマンスするということで見学させていただいて、その盛り上がりって言ったら半端なかったですね。
最初にこれを見せられたら、「やらない意味がない」って感じでした。その頃年齢的に45歳、これから何ができるんだろう思いつつ「大道芸」について、いろいろな角度から勉強しました。
最初はパントマイムの他は何ができるのか?音楽は?道具は?衣装は?それを考えるのがもう楽しくて楽しくて、さらに日立国際大道芸に足を運んで「プロの大道芸人」の技術を拝見しながらさらに研究!
4、チェンジ
インプットの作業は終わって今度はアウトプットの作業!
さあデビュ~となるわけですが、場所はゴールデンウイークでにぎわう「草野心平記念館」当時は一言も話さずにパフォーマンスしてました。
今考えると「間がもたない」って思いますが、何も知らないって強いですね(笑)その後、いわき芸能倶楽部の最高顧問「古扇亭唐変木さん」から「話入れたほうがいいよ」と言われて、徐々に話を盛り込んでいきました。
パントマイム・ジャグリング・バルーンアート・マジックと真剣にやってましたが、段々とゆとりが出てきた頃には「コメディーパフォーマンス」を中心にやっていこうと思い始め、そして大道芸に興味が沸いてくる。
いつかは小名浜の海辺で「投げ銭式」のパフォーマンスするぞと目標を持ちました。パフォーマンス始めた二年後あたりに実現できて海辺でのパフォーマンスライセンスを頂きました。浜風を受けながらのパフォーマンスは気持ちよかったですね。
そうこうしている時に・・・
東日本大震災勃発
つづく