いわき市鹿島街道沿い「御代の大仏」東日本大震災から9年目を迎えて

 

今日は東日本大震災から9年目になります。

ここ福島県いわき市は地震・津波・原発と「三重の災害」で大変な状況でした。

ず~と継続して追悼式を行ってきましたが、今年は新型コロナウイルスの影響で追悼式が中止となっています。

震災時の時間になりましたら黙祷を捧げたいと思います。

今日はいわき市にある「大仏」を紹介させていただきます・

 御代の大仏

 

いわき市の皆さんに愛されている通称「鹿島街道」を小名浜から平方面に向かうと右側に東警察署があって、さらに進むと御代坂があります。

御代坂を下ってる最中に左側にある「光西寺」

ちょっと油断すると行き過ぎるので注意してくださいね。

寺門のところに何やら怖い方たちが番をしております。歴史を感じますね・・・

臨済宗妙心寺派に属するここ光西寺の銅造阿弥陀如来像は、地域の人々から「御代の大仏」と呼ばれ古くから親しまれています。

仏像は高さ2.76m、また台座の部分を含めると3.63mに達する大きさで尊顔は少し面長で、鼻筋が通り、目にはかすかな笑みをたたえています。

台座の蓮弁には、仏像の由来や製作年、製作者、寄進者の名などを記した銘文が刻まれています。

同寺の中興、禅法上座は仏像の造立を発願し宝暦2年(1752年)に全国を回って喜拾を呼びかけました。

 

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同10年、志半ばにしてこの世を去ってしまいました。

その後、明和2年(1765)より喜拾が再開され日本橋の豪商、村田治右衛門 上野国伊勢崎の竹内荘兵衛などの尽力により、同4年に仏像は完成しました。仏像の製作者は江戸神田の御鋳物師 木村将監安忠です。

 

しかし残念なことに仏像が完成されても、すぐにはこの地には建立されずに、数年間も打ち捨てられていました。

安永5年(1776)小名浜中島の金成六平大が願主となり、地元御代村をはじめ小名浜代官所の役人や小名浜の豪商であった小野四郎右衛門、立花四郎右衛門など多くの人々の協力によって現在の地に安置されました。

基壇の工事は小名浜中町の石工長瀬右衛門手によって行われ、また天保12年(1841)11月には平儀右衛門などにより基壇の修復工事が施されました。

この仏像は蓮弁に刻まれた銘文によって製作された年月などがわかりますが、このように今日に至るまでの経緯が明らかに仏像は他にあまり例がなく、その意味でも大変貴重な文化財となっています。

3月11日というこの日に偶然にこの記事を書けたことに、何か運命みたいなことを感じます。

思えば小学一年の遠足が「御代の大仏」でした。あれから半世紀になるんですね・・・御仏を敬うというのは、結局のところ自分自身の分身であって自分を大切にできる人は、他の人も大切にできるということだと思います。

合掌

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